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いつの間にか四半世紀、振り返ってみると

[2018.11.30]

平成も残り一年を切り、新しい時代を迎えようとしています。

この号が発刊される11月には、私の診療所も開院25年になります。昭和59年に医籍登録それから35年間、耳鼻咽喉科診療に携わってきました。長かったのか短かったのか自分でもはっきりしませんが、開業準備から振り返って思い出していきます。

全てを拾い上げるといろいろありすぎて容量オーバーしてしまいそうなので、今回は総論でまとめたいと思います。細かいことはいずれまた報告出来る機会があれば、院長コラムにて語りたいと考えています。

 

私が入局した頃は、現在のような研修制度ではなく、まるで体育会系のクラブに入るような感じでした。身分保障や給与保証もなく、上の先生(オーベン ウンテンの関係)について、1から学んで行くという状態でした。

聞いて、見て、盗んで、技術を身につけていきました。今日の様な研修プログラムは確立されていませんでした(文中、当時の名称が出てきますがご容赦ください)。

ノイヘレン(新人医師のことです)1年目は、学生時代のクラブ柔道部の先輩が指導医でしたので、とてもかわいがっていただきました。

もちろん指導方法は柔道部方式です。手術の助手もしくは自分が執刀医のときも評価してもらうこともありましたが、教わったことをきちんと習得していないと、「下手」「医者やめるか?」と、今では信じられないかもしれませんが、当たり前に怒られていました。

当時はパワハラ・アカハラ・セクハラという言葉は存在しませんでした。ほとんど、たこ部屋・女工哀史の世界でしたが、何故か「食」は恵まれていました。

1日が終わって医局にいると、先輩が‘「飲みに行くか?」「はい、ごちそうさまです」という感じで出かけ、次の日の朝も早いので医局に泊まる生活。大学院研究室時代も、医局か研究室に泊まって病院の風呂に入って、週末に帰るというパターンでした。

 

このような状態でしたので、いつ頃開業するかなんて考える余裕もありませんでした。ただ漠然と、院生のお勤めが終わって学位が取得できれば、助手(正式な職員でお給料が貰える)。臨床経験をつんで講師。それから開業を考えようと思い描いていました。

がしかし、「予定は未定」の言葉通り、私は上の上の方の先生からあまり受けが良くなかったみたいで、(もともと入局時に将来的には開業しますと伝えてあったので)大学院時代から外回りの勤務が多く、研究生活と関連病院勤務の二足のわらじ状態でした。

研究発表会でも後ろから鉄砲で撃たれる状態でぶち切れた事もあり、10年目になり開業を決めたとき、当時の主任教授に報告に伺ったとき「君はいずれ来ると思っていた。しかし今人がいないからもう少し先にならんか?」など短いやり取りの後、「申し訳ないですが話を進めますので、後任の件よろしくお願いします」と返事の上、教授室を後にして、本格的な準備が始まります。正式な開業日時は平成5年(1993年)11月5日です。

 

まず大事なことは資金繰り、銀行からの融資です。丁度時期はバブルがはじけた後で、不動産担保だけでは首を縦に振ってくれません。「今までの付き合いがありません」「実績がありません」等々で、体よく断られました。この銀行は近所で母親時代からの付き合いですが、15年以上のブランクがありました。厳しいなと感じながら、先輩からの紹介で融資を受けることが出来ました。

後日談ですが、開業してしばらくして飛び込みでそのS銀行の営業係が挨拶したいとのことで少し話をしていると、「先生の診療所の社保・国保が、振り込み指定になっていないのですが・・・」と言います。「あなたところの融資係に、私は門前払いされましたから」と伝えると、「私の所の融資係が、そんな失礼なことを言いましたか?」 彼から信じられないような言葉が。私は思わず、「だから、S銀行さんから融資受けてないでしょ」。

昔から、「銀行は天気が良いと傘を持ってきて、雨天気が悪くなると傘を取り上げる」と言いますが、このときの私は、まさにそんな気分でした。「一歩外に出ると、7人の敵がいる」といいますが、さまざま勉強させられました。

 

反対に建築関係は、比較的よく要望を聞いてくれました。ただ建築資材・設備・内装等は、新しい物の方が良いと思います。昔はペアガラス・LED・ホームセキュリティ等は、まだ一般的ではありませんでした。

開業に当たって心配と不安の連続でしたが、先輩に多岐にわたりお世話になり、また励ましの言葉もいただきました。

  1. 今まで学んで身につけてきたことを、きちんと続けなさい。
  2. 勤務医は部長でも所詮チーママ。開業医は城の主いわゆるオーナーママ。スタッフとの関係も上司・部下ではなく、雇用主と雇用者。
  3. 院長業務はもちろん、総務・会計・雑用全て管理。

自分に全てをこなせるのか、毎日が不安の連続でした。月が変わったら患者さんが来てくれるのかな?と考えたこともありました。勤務医時代とは全く異なる雑用に追い回されながらも、そのおかげで様々な交渉も身につけることが出来ました。

 

しかし不満も数多くあります。母親の開業時代を知っているので、昔と話が違いすぎるのではないか。薬品に関しても、開業する半年前に仕入れが建値制に変わり、融通の利かない状態になっていました。当院もはじめの頃は院内処方でしたが、8~9年前から院外に変更しました。

猫の目のように変わる医療行政に振り回されながらも、25年を迎えました。一時体調を崩した事もあり、齢60歳を前にして新たな不安が目の前に迫っています。最近、事務処理能力が落ちてきたような気がします。加えて、古くなった設備の更新のタイミング(医師会に入会したときは30歳台のA会員は私一人だったのですが)。私の身体も機械も傷んで来ました。悩むことが日々増えていくような気がします。

最近、同級生の一人がクリニックを譲渡するという話を聞いて、我が身のことも真剣に考える時期が来たように感じています。今日明日変わることではありませんが、5年10年の単位で様々な事を考えていく必要があると考えています。学生時代、研究室時代とは比較にならないほどの経験・知識を吸収出来たように思います。

 

25年間で学んだ事は数多くありすぎて上手く表現できませんが、開業は第3次産業、サービス業ということです。自分一人では診療業務が回りません。スタッフに支えられて診療が進みます。

しかしスタッフの指導・教育もしなければなりません。お山の大将ですがですが、土台・石垣がしっかりしていないと続きません。私自身健康に留意して、突然の休診などならないように、仕事が出来ることが幸せと思えるよう精進したいと思います。

どうにか四半世紀25年を迎えることができ、今まで支えてくださった方々に感謝の意を表します。これからも少しずつ続けて行こうと考えています。ネタはたくさんあるのですが、院長コラムに合う物をチョイスしてお目にかかりたいとおもいます。お付き合いの程よろしくお願いします。

 

ちなみに25年前、平成5年の出来事を挙げてみます。

  • 5月9日 皇太子德仁親王と小和田雅子氏ご成婚
  • 8月13日 1954年以来の冷夏と気象庁発表
  • 9月30日 コメ戦後最悪の凶作 タイ米を食べたことが懐かしいです

巷ではCHAGE&ASUKA「YAH YAH YAH」が流行り、若貴時代が始まり、ジュリアナ現象、コギャルという言葉が流行りました。

川﨑耳鼻咽喉科 川﨑 薫
平成30年11月吉日 

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